山羊の歌より
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる…
―― ピナコテカの令和的ライナーノーツ
「悲しみに、綺麗も汚いもあるのだろうか」
この問いが最初にありました。
「汚れてしまった」ではなく、「汚れつちまつた」。
そこには、自分を責めるのでもなく、誰かを恨むのでもない、
「ああ、しようがないな」と自らの業を静かに受け入れる、あるがままの受容が響いています。
濁りゆく悲しみの正体
中原中也の心の奥底には、幼い弟や親友を亡くした純粋な汚れていない悲しみが、常に「重奏低音(バッソ・コンティヌオ)」のように鳴り響いていました。
しかし、その清らかな旋律を濁らせていったのは、彼自身の「人間臭さ」だったのではないかと思います。
「格好良くありたい」「愛されたい」「正当に評価されたい」
誰もが抱く世俗的な欲望と、それが叶わぬ焦燥。
その不純な心持ちに起因する悲しみが、純粋だったはずの悲しみを徐々に汚していく。
気づけば、その「汚れた悲しみ」が心の大半を占めていた――。
絶望の先にある、不思議な穏やかさ
けれど、この詩から聴こえてくるのは絶望ではありません。
私たちは、不思議なほどに穏やかな風を感じます。
不純な心から生まれた悲しみも、純粋な悲しみも、すべては自分自身。
死を夢見たり、怖気づいたりしながらも、それでもなお生きていく。
「評価されない天才」である前に、一人の人間であり、大自然の一部である自分を淡々と受け入れていく姿。
日が暮れて、また明日が始まる。その繰り返しの愛おしさ。
汚れた悲しみも、良いもんだよ
中也がこの詩を綴ったとき、果たしてこれほどの光を見出していたかは分かりません。
しかし、昭和の混沌を知り、平成の虚飾を通り抜けてきた今の私たちには、彼がこう囁いているように聴こえるのです。
「汚れた悲しみも、良いもんだよ」
その一言を、私たちは旋律に乗せました。
専門的な表現になりますが、
不穏な濁りを持つ Em-Dm の響き(Aメロの最初の和声)が、最後には柔らかな光を湛えた Emajor の和音(曲の一番最後に奏でられる和音)へと昇華されるとき、
あなたの「汚れつちまつた悲しみ」もまた、静かに肯定されることを願っています。


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